2013年9月18日ブルーレイ&DVDリリース|映画『藁の楯 わらのたて』公式サイト
見てきました。
実はあまりあらすじも知らずに見に行ったのだけども、感想としては考えさせられるけど後味が悪い映画という印象を抱いた。
以下ネタばれ注意
ストーリーとしては「???」となるところがたくさん。これを言うと元も子もないのだが、容疑者が出頭した時点で、暗殺のプロを雇えばよいのでは?そして、税金使って何十台ものパトカーで警護するくらいなら、容疑者を東京に移送せずに、九州で取り調べを行えばよいのでは?新幹線を止めるやつがいるのに、なぜ止まった後に待ち伏せしている人がいない?
もしかしたら原作を読むとそういった疑問もなくなるのかもしれないが、映画を見ただけでは不可解としか思えない。
考えさせられる部分としては、
1.犯罪者を命がけで守る必要があるのか
2.1.の答えは、犯罪者自身が己の所業を悔い改めていることに左右されるのか
1.に関して
映画の文脈上間違いなく犯行を犯していると思われるものの、今回の場合はまだ「容疑者」であり、冤罪の可能性が排除できないという点は考える必要があるのだろう。では犯罪者と確定した場合はどうか。それでもなお、守る必要はあるのだろう。それは現在の法律では私刑は禁止されていることからだ。もし、法律の範囲外で勝手に他社に制裁を加えることが可能だとしたら、社会的強者が自分の裁量で社会的弱者に制裁を加えることが可能となってしまう。これでは、法律が守られなくなり、社会秩序が保てなくなってしまう。
しかし感情的には「こんなクズのために命をはる意味があるのか」という疑問は抑えがたい。不正を行った者のために善良な者が死ぬことは心情的に受け入れがたい。しかし、人権の観点から考えると、善良な市民の命は罪を犯した市民の命より大切にされるべきなのか?しかしもし、何が罪に値するのかという基準が恣意的だったら?例えば、外出時にスカーフを巻かないと死刑という法律がありその法を犯した場合は?
2.改心した犯罪者を守るために命をかける価値はあるのか
反省は皆無で確実に再犯する者であれば、その者を守るために命を落とすことはますます受け入れがたい。悔い改めた者であれば、命をかけて守ることも或いは多少正当化できるだろうか。
容疑者を九州から東京に連行する際には、居場所をしられないことが最も重要であり、その意味では一般市民に紛れ込むのが最も良い。これは、「容疑者を九州から東京に連行する」という任務のためには最良の策だが、「市民の生活の安定を守る」という警察本来の目的には合致しない。つまり、部分最適と全体最適が一致していない。一人の容疑者を守るために無関係の市民を危険にさらしてもよいのか?さらす価値があるのか?
主人公の銘苅の任務遂行に対する意識、執念にはただただ恐れ入るばかり。自分がその立場にいたら、発狂していただろうなと思う。感情とは主観的なものである。主観的なものは人によってそれぞれ。社会のルールが主観に左右され、ころころ変わるようでは、社会の秩序が保てない。だから、主観を排し、できるだけ客観的で「公平」なルールが作られる。しかし当然そこには感情的に受け入れられない部分が生じてしまう。そうした葛藤とどのように付き合っていけばよいのだろう。それを考えさせられる作品でした。
しかし、ストーリーを通して容疑者に対する怒りが抑えがたく、死んでいった人が浮かばれないなぁという感情的な後味の悪さを感じる作品でもあったなぁ。。。
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