市内と空港を車で往復する際、昔からのレンガ造りの平屋が密集する旧市街を何度も見かけた。今でもトイレもお風呂もなく、住民は数十年前と同じ生活をしているとのこと。
驚くべきはそのボロボロの古い民家の目と鼻の先に20〜30階建の現代的な高層マンションがそびえ立っているのだ。
数年前に中国は上海から郊外に車を走らせると2、3時間もすれば、数十年前、数百年前と見紛うような農村を見ることができると本で読んだことがあるが、今でも、上海市内でも数十年前と変わらない上海を見ることができる。
その風景は、凄まじい経済成長のスピードとともに成長を全ての人が享受できるわけもなく時代の波に取り残されたおびただしい数の人々がいることを克明に表していた。
いつの間にかボロボロのレンガの平屋の住民で、空に届かんばかりの高層マンションを見上げたとき、どんな気持ちがするのだろうかと考えてしまう。
それは、「俺もいつか必ずあんな高層マンションに住めるようになってやる!」という野望なのか。
それとも、もはや高層マンションの住民は自分達とはもとから違う世界に住んでいる。同じ生活など望むべくもないという絶望なのか。
はたまた、本来同じような生活をしていたはずの人々の間に10〜20年でこれほどの差が生まれることを許容した政府や社会に対する不満や怨嗟なのか。
何れにしても何が目の前に映し出されている格差の原因となったのか、運なのか、政策なのか、各人の努力なのかと思いを巡らせないではいられない。
街中に横たわる「現実」は、多くの問題の根源でありつつも、間違いなく上海が今後も成長していく動力源の一つだ。
「持たざるもの」に野望を与えるとともにすでに「持つもの」にも強烈な危機感を抱かせる。前に進まなければ、取り残されるのだと。
上海は成功してへの「意識」や、成功できるかもしれないという可能性を感じさせる場所だった。